催眠術をどう定義するか

3回にわたり、私が参加した気の体験セミナーについて、感じたことをお話ししてきました。

「気」とは、怪しいものなのか?

いいえ、そんなことはありません。私には気を感じることができました。

しかしながら、まあ、前々から思っていたことですが、気と催眠術とは同じではないかという疑問については解き明かすことはできませんでした。

まだ私自身、催眠術を受けた経験がありませんので、その違いを体感できていないのです。

ちょっと話はずれるかもしれませんが、、

「催眠」と呼ばれるもので私が経験したことがあるのは、「自己催眠」です。

正式に「自己催眠」と断言していいものかはわからないのですが、私が経験したのは「イメージトレーニング」です。

まあ、自己流ではありますが、「イメージトレーニング」で成功をした経験があります。

どんなことをしたかというと、、、

まだ太っていたころ、「朝のランニングを習慣化したい」と思って、朝の行動を事細かにイメージに落とし込んで、毎日頭の中で復唱したのです。

その結果、難なく朝のランニングを習慣化することに成功し、1年半で約20キロのダイエットに成功したことがあります。

つまり、、理想的な行動をとっている姿をイメージしていると、その通りに動けるようになるのがイメージトレーニングですが、これはある意味自分自身をイメージを使って催眠術にかけているのではないかと思えるのです。

ですから実践者の温度感としては、私の中ではイメージトレーニングは催眠と同じカテゴリーです。

他社からの影響力にしろ、自らの影響力にしろ、何かしらの影響を受けて私たちは毎日生きています。

もし、その影響力で「行動が変わった場合」、私はある種の「催眠」の効果が働いているのではないか、と思っているのです。

それまでの認識レベルではできなかった行動ができるようになる場合のすべてに、人間の意識にはある種の催眠的な作用が働いている、というのが私の見解です。

気と催眠術は同じか?

ところで、気のセミナーで気付いたことをもう一つだけお話ししたいと思って、おまけの記事を書こうと思った次第。

というのも、先生と気の交流をしているうちに、その場で不思議な意識を持っていた自分に後から気づいたのです。

それは、その場で自由にスイッチを入り切りできるということ。

つまり、先生の発する気のシグナルに従おうと思えば従えるし、切ろうと思えばシャットアウトして、日常の意識で行動できる。

もっと言うと、「立てなくなる」という暗示をかけられているときに、意識を覚まして冷静になればスッと立ち上がることはできたのです。

ですが、先生の誘導するタイミング、意識、気の力?を感じながら動くと、腰砕けになります。

スイッチを切り替えればどちらの道も選択できるという自分も発見していました。

ただはっきり言えるのは、抗うことはできても気でコミュニケートしてくる先生の誘導にしたがっているほうが気持ちがいいのです。

これは、催眠術と似ている現象ではないかと思います。

以前、催眠術にかかったことのある人の本を読んでいた時に「催眠術にかかっているときに、冷静にかかっている自分を見ているもう一人の私がいた」というような文章を読んだことがあり、私は先生から気のコミュニケートを受けたときにまさにその表現通りの心境だったのです。

先生と気のコミュニケートをしているときに、どこか冷静な自分が他から見ていました。

抗うことも、かかり続けることも容易に選択できる自分を冷静に見ることができていました。

結局、何を選ぶかは他者にコントロールされることなく、何を信じたいか、どうありたいか、で決められるのです。

もしこれから気を学び続けたいなら、何のために、自分がどうありたいために気を学ぶのか。

気というコンセプトを人生にどう生かしたいと思っているのか。

興味があることを放置せずに、この機会に掘り下げてみたい、、と思えました。

自分が興味があることって、きっと、自分の生きる価値観に大きく関係するものだって気がするんですよ。

 

ありがとうございました。

 

腰痛へっちゃら仙人